和田竜 天下統一を遅らせた海賊の正体 

『村上海賊の娘』以降、準備期間を多めにとって昨年11月に新作『最後の一色』を上梓した。

丹後国(現在の京都府北部)の守護、一色五郎と、織田信長の命令により丹後征服を狙う長岡(細川)藤孝、忠興との攻防を描いた小説だが、陸戦が中心とばかり思っていた取材中、日本海に面した丹後国ゆえ当然というべきか、海戦の記録にぶつかった。

もっとも一色家と長岡家との合戦ではなく、信長に命ぜられた長岡家が、鳥取城攻めを実施していた羽柴秀吉に加勢するという史実においてである。信長の死の一年前、天正九年(1581年)のことで、当時長岡家は一時的に一色家と和睦して丹後に入国しており、長岡家からは家老の松井康之と重臣の有吉立行が丹後の国人矢野藤一郎ら千五百の士卒を率い、大船数艘で鳥取に馳せ向かった。当時、鳥取城は毛利方の城で、史上有名な秀吉による鳥取城の兵糧攻めに長岡家も一役買ったのである。

毛利方は飢える鳥取城に兵糧を入れるべく、鹿足民部少輔元忠を大将に大船二十五艘を添えて出撃させた。鳥取城は海辺の城で、日本海に注ぐ袋川を一キロほどさかのぼれば、城に着いてしまう。それを阻むべくやってきたのが長岡家率いる丹後勢で、秀吉は彼らが到着するや大喜びでこれを迎え、敵船の撃退を依頼した。

長岡家の家老、松井康之は山城国(京都府南部)の人で海戦は知らない。合戦においては康之自ら戦い大功を立てたが、兵船の操作など海上の実務は丹後の国人が行ったのだろう。海に囲まれた我が国においてはその津々浦々に海戦に長けた者どもが蟠踞しており、丹後もまたその例に漏れなかった。なお丹後の隣国、但馬国には当時、奈佐日本之介という、いかにもという名の海賊がおり、日本の海上には隙間もないほどにこうした海の兵どもがいたのだ。

ちなみに「海賊」の文言だが、一般には敵方から見た蔑称が「海賊」という言葉で、信長も鳥取城を攻める秀吉を加勢するよう長岡家に命じる際、毛利方の船団を「賊舟」と呼んでいる。またどこにも属さぬ海の民も「海賊」と呼ばれていたようで、村上海賊の子孫たちは、それを誇りに思っていたふしがあり、「私の先祖は海賊だった」と江戸時代の毛利家の調査に対して堂々と答えているぐらいである。

天下一統がなされていない時代、敵方から「海賊」と呼ばれようが、それがどうしたと思うのが自然だろう。従ってそのニュアンスは現在にも残り、「賊」=「犯罪者」とはまるで違う香りが「海賊」の文言には存在し続けた。なお、「水軍」の文言は、普通どこかの大名家に属した際に付されると言われるが、「水軍」とは後世の言葉で、「水軍」に当たる当時の文言は「警固」である。従って味方となった海の民は「警固」とか「警固衆」と、もっぱら呼ばれた。

長岡家の松井康之率いる丹後勢は、見事に毛利家の「賊舟」を撃退した。この武功は、秀吉はもとより信長にも激賞されたと細川家の家記『綿考輯録』にあるが、松井康之がこの海戦に伴って行ったことはほかにもある。丹後の宮津城から鳥取城下に行く間に、日本海側の織田方の城々に兵糧を入れていったのだ。この短期間での兵力と兵糧の大量輸送が、海の民の真骨頂であり、信長もそのことを事前に命じていたのだ。

前置きが長くなったが、この兵力と兵糧の大量輸送のうち戦国最大のものが、村上海賊と毛利警固衆の連合軍による大坂本願寺への兵糧入れである。信長の死ぬ六年前の天正四年(1576年)の出来事だ。

信長の最大の敵は本願寺の門徒と言っても過言ではなく、信長に敵対する戦国武将どもは、本願寺を頼りに戦略を立てた。従って、この天正四年の兵糧入れの成功により、信長の天下統一事業は四年は遅れたと見ることもでき、仮に兵糧入れが失敗していれば、大坂本願寺は天正四年の段階で降参したはずで(実際は四年後の天正八年に降参)、だとするなら、信長は四国も九州も手中に収めることができ、一説には四国の長曾我部氏との関係から起こったとされる明智光秀の謀反もなく、そうなればその後の日本のあり方も随分と異なっていたであろう。本願寺への兵糧入れの成功は、日本史上、相当インパクトのある出来事だったのだ。

天正四年の大坂本願寺への兵糧入れに成功した最大の要因は、村上海賊が加勢したことにある。この海戦に参加した武将たちは、ただちに連名で報告書をまとめ、毛利家の重臣に提出した。

報告書には、村上海賊、毛利警固衆の連合軍が雑賀衆を味方につけ、木津川口を固める信長の船団を打ち破った様子がざっと記されている。特筆すべきは、十四人の武将が連署した順番で、書札礼上、普通最後に署名した人間がもっとも重要な人物となるのだが、この報告書の場合、能島村上の村上元吉の名が最後に記されている。なお、能島村上は、ルイス・フロイスが「日本最大の海賊」と評した海賊家で、村上元吉は拙作『村上海賊の娘』の主人公、村上景の兄である。

連署した武将の中には、毛利家直属の警固衆の長、児玉就英や、小早川家の警固衆の長、乃美宗勝、来島村上の村上吉継、因島村上の村上吉充もいるが、それらを差し置いて、能島村上の代表者が最後に署名しているのだ。瀬戸内の海賊衆の中で、いかに能島村上が重んじられていたのか分かるというものだ。この書状は現存しており、通常「村上元吉以下十四名連署注進状」と呼ばれる。

天正十年四月、中国攻めの最中だった秀吉が、能島村上の村上武吉、元吉父子に味方するよう依頼した書状が二通残っている。本能寺の変の二カ月前のことだ。織田方にとって大坂本願寺の兵糧入れでの敗戦はよほど身に染みたのだ。

和田 竜 わだ・りょう
1969年、大阪府生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。2003年、映画脚本『忍ぶの城』で城戸賞を受賞。07年、同脚本を小説化した『のぼうの城』でデビュー。同作は直木賞候補となり、映画化された。14年、『村上海賊の娘』で吉川英治文学新人賞および本屋大賞を受賞。他の著作に『忍びの国』『小太郎の左腕』などがある。最新作は、丹後国の守護である一色五郎の興亡を描いた『最後の一色』。

※『Nile’sNILE』2026年4月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

真のラグジュアリーとは何か

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