諦めると聞くとネガティブなイメージが浮かぶが、本来は仏教用語で「明らかにすること」だったと言われている。「事情をはっきりさせる」「曇りなく見通す」「つまびらかにする」が明らかにすることの意味合いだ。
明らめるにはなんとなくベールを剥ぐような印象がある。そのベールはおそらく薄い生地でできていて、覆われているものがなんとなく見えているものの、はっきりとわかるほどの薄さではない。ベールを剥ぎ取ってしまえば、中にあるものがわかるのだがどうしてもそれができない。
おそらく諦めきれない時の人間の心境はこんなところではないだろうか。自分でも何かは気づいているがそれを認めるのが怖い時だ。
いや待てよ。でもあなたは元アスリートじゃないか。アスリートがよく「諦めなかったからここまで来れた」というじゃないか。スラムダンクの安西先生も「諦めたらそこで試合終了ですよ」と言っているじゃないか。
おっしゃる通りで、諦めてしまえば可能性はなくなる。やっている限りは可能性はゼロにならない。もし、あそこで諦めていたら今の自分はないだろうと思う方も多いのではないか。
諦めた方がいいのか。諦めない方がいいのか。どっちなんだ。それは実は自分に投げかけられた問いでもある。どこまで行っても可能性はゼロにはならない。だから理屈上は続けていれば可能性はある。一方で、人生は有限だ。どんな人でも一日は24時間しかない。続けているそれをやめれば、新しいスペースができてそこに何かを入れられる。もし、明日の朝目覚めて、今までの記憶がない状態で選択をするなら、今までやってきたことも、違う何かをやることも、等価になる。
ベールの話に戻ろう。ベールを剥ぐのは勇気がいるが、一度剥ぎ取ってしまうと「ああやっぱりそうだったか」と腑に落ちることが多い。人は意外とよく終わり際がよくわかっていたりするものだから。
もしももう自分でもうっすらわかっていて、諦めたいのだけれど諦められない時、私は儀式を行うことを勧めている。一定期間思いっきりやってやって、これでもかというぐらいやり切って、それでだめなら諦めると決める。中途半端は良くない。
私がアスリートだった頃、最後の4年間は今考えると儀式だったと思う。やってやってやり切って、それでダメだったから、気が済んだ。残しておくのは思い出して良くないと、現役時代のものは全部処分してしまった。引退した次の週にはランニングシューズひとつ家になかった。
そこまで極端でなくてもいいけれど、ベールを剥ぎ取って事実を見る頃かなと思った時にはぜひ儀式をやってみてほしい。最後に私からの言葉をひとつ。
「後ろの扉を閉めた時に前の扉は開く。いくら前の扉に可能性が広がっているとしても、前の扉を開いてから、後ろの扉を閉じることはできないのだ」
為末大 ためすえ・だい
1978年広島県生まれ。スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2026年3月現在)。現在はスポーツ事業を行うほか、アスリートとしての学びをまとめた近著『熟達論:人はいつまでも学び、成長できる』を通じて、人間の熟達について探求する。その他、主な著作に『Winning Alone』『諦める力』など。
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2.筆者が説く、次の扉を開くために「後ろの扉を閉める(やり切るという儀式)」という考えについて、どう感じましたか。
3. 次のステージ(前の扉)へ進むために、あなたが今、あえて手放そうとしている(後ろの扉を閉めようとしている)ポジションやこだわりはありますか。
4. この記事のテーマについて、知人や同僚と議論してみたい(または共有したい)と感じましたか。
5. 今後、この筆者にどのようなテーマを取り上げてほしいですか。
※『Nile’s NILE』2026年4月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています

