心斎橋といえば大阪を代表する繁華街の一つである。大型百貨店やハイブランドの旗艦店が立ち並ぶ御堂筋、バラエティーに富んだ店が軒を連ねる心斎橋筋、古着などストリート系の輸入雑貨が充実するアメリカ村などが、心斎橋エリアを構成する。また、南隣には「食い倒れの街」として知られる道頓堀もある。
大阪の繁華街は梅田近辺の「キタ」となんば近辺の「ミナミ」に分かれるが、心斎橋はミナミの北側に立地。いわばキタとミナミの間で活気を放つ、名実ともに大阪の中心的存在のショッピングエリアなのだ。
江戸時代からの繁華街
エリアとしての心斎橋の語源となったのは、もちろん「心斎橋」という名の実際の橋だ。江戸時代から商都として大いに栄えた大阪には、流通を支える堀(水路)が街中に掘削されており、「水都」とも呼ばれたほど。碁盤の目のように道が走る大阪の街には多くの堀が流れている。
心斎橋が架けられた長堀は、東西に流れる堀。水運の活性化のために長堀の開削事業を江戸幕府から請け負い、その開通に中心的役割を果たした商人、岡田心斎らによって架けられたのが初代の心斎橋だ。完成は、江戸時代初期の1622(元和8)年ごろとされている。
この当時の心斎橋は長さ約35m、幅約4mの木製の橋。幕府が建設・管理する「公儀橋」ではなく、補修費用なども町人が負担する「町橋」であった。なお江戸時代の大阪には200近くもの橋が架かっていたというが、公儀橋は12のみで他は町橋だった。これは商業が発達し、町人が力を持っていた大阪ならではのこと。心斎橋はそんな町橋の代表格。町人たちが大切に管理し、何度も架け替えながら大切に使い続けられてきた。
その後、心斎橋から南北に延びる道は、心斎橋筋と呼ばれるように。この心斎橋筋は、江戸時代から多くの商店がのれんを掲げる通りとして繁栄してきた。それには理由がある。
心斎橋から心斎橋筋を南に下ると、道頓堀とそこに架かる戎橋(えびすばし)へと行き着く。この近辺は道頓堀と呼ばれるエリアで、江戸時代の初期から「芝居町」であり、日本屈指の劇場街だった。官許を得た五つの格式高い大劇場「道頓堀五座」、そして観劇をしながらの食事の出前をとる茶屋が並ぶ、エンターテインメントと食の街として大いににぎわっていた。
一方、心斎橋から北に上り、西に進んだ一角には新町遊郭が位置していた。新町遊郭は、島原、吉原とともに日本三大遊郭の一つに数えられていた規模を誇る。
道頓堀と新町遊郭。この二つを結ぶ通い道として発展したのが、心斎橋筋である。特に心斎橋が架かる場所から北に上り、新町遊郭に向かい左折する位置にある通り「順慶町通」には、夜店がひしめいていた。扱うのは、衣服、家具、食品、仏具など幅広い。その活況、そして夜に煌々と輝く街並みには、江戸から訪れた人も大いに驚いたほどだという。このように、江戸時代の心斎橋エリアは、心斎橋の北側が主に栄えていた。
とはいえ、心斎橋の南側の心斎橋筋にも、多くの商店が並んでいた。特に、1600年代の後半になると呉服店も軒を連ねるように。明治以降に百貨店へと転身する大丸や十合(そごう)も、心斎橋の南側に店を構えていた。
モボ、モガが闊歩するエリア
明治時代になると、新町遊郭は衰退する。それとともに街の中心エリアは南側へと移った。この時期、心斎橋の商店で人気を集めたのが、舶来の品々。時計、洋傘、洋服が大いに注目を集めた。また、多くの店の店構えも洋風に変化し、街全体がモダンな雰囲気へと変わっていった。
そして大正時代になると、呉服店は百貨店へと転身。特に大丸は米国出身の建築家、W・M・ヴォーリズによる堂々たる風格を持つ西洋風の建築で、近隣の雰囲気を一気に最新の西洋風に塗り替えた。
さらに心斎橋エリアにアメリカ風のドラッグストアや飲食店が増えたのも大正期。「モガ(モダンガール)」や「モボ(モダンボーイ)」がウィンドーショッピングを楽しむ様子が名物になるなど、流行の最先端をいくファッション街として知られるようになった。「銀ブラ」ならぬ「心ブラ」という言葉が生まれたのもこの頃だ。
ちなみに大阪市による大規模都市計画により、1923(大正12)年から、心斎橋筋の1本西にある御堂筋を大阪の大動脈にすべく、大幅な拡幅工事が行われた。それでも心斎橋筋は変わらず、歴史ある商店街としての地位を守り続けている。
なお、橋としての心斎橋は、江戸時代に木製で造られて以降、変化を経ながら今に至っている。
まずは明治時代、1873(明治6)年、文明開化の最中に、ドイツから輸入された鉄製の弓形トラス橋にリニューアルされた。当時の大阪では、鉄橋は非常にめずらしいもの。橋脚を設けず、川をひとまたぎする形も目を引いた。西洋文化の到来を象徴する大阪の名所の一つとして注目を集め、錦絵にも多く描かれた。
その後1909(明治42)年には、西洋モダンなデザインの石橋に生まれ変わる。この橋でまず印象的なのは、石造りの2段アーチの美しさ。そして橋の上にはガス灯が立ち、欄干には四つ葉のクローバー形の装飾が施されるなど、情緒あふれる雰囲気が魅力を放っていた。なお設計は、中之島図書館と同じ野口孫市によるもの。川面に映る姿から、眼鏡橋とも呼ばれ親しまれていた。
戦後になって流通手段が水運から完全に陸上交通に変わり、街全体の交通量が増えるようになると、長堀川が埋め立てられることになった。心斎橋の下に流れていた長堀川は、1964(昭和39)年に埋め立てが完了。かつて川だった場所は長堀通となり、心斎橋は長堀通を横断する歩道橋に変貌した。この際、ガス灯や欄干、親柱などは再利用された。
この歩道橋は、1996(平成8)年に京橋駅から心斎橋駅まで延伸した地下鉄長堀鶴見緑地線の工事の際に撤去され、かつて心斎橋があった場所は横断歩道となった。そして1997年には歩道橋の一部が、横断歩道にモニュメントとして保存されることに。この時用いられたのが、ガス灯、親柱、四つ葉のクローバーの装飾の入る欄干だ。現在、横断歩道ではこれらのモニュメントを通して、かつて長堀川にかかっていた橋に思いをはせることができる。
平成、令和も心斎橋ブランドは続く
エリアとしての心斎橋は、戦後の高度経済成長期、バブル期、バブル崩壊、インバウンドの時代……という歴史の変動を経ても、大阪を代表するショッピング街としての魅力を損なわずにあり続けてきた。
なお、ここ10年で大阪市内では二つのエリアで大規模な商業施設の開発が行われ、人の流れが変わったとも言われている。具体的には、2013年にはキタの梅田地区にグランフロント大阪が開業。そして2014年には、南部の阿倍野にあべのハルカスが全面開業した。心斎橋はこれらの影響をまったく受けないということはなかったが、歴史の深さ、長年にわたり築いてきた「大阪を代表する繁華街」というブランド力は他のエリアにはないもの。ハイブランドの路面店、旗艦店が立ち並び、歴史ある百貨店も存在感を示す街として一流を求めるお客を集めている。
そして新しい店だけでなく、昔ながらの店も混在するのが心斎橋の魅力。いつの時代も老若男女が集まる街として輝き続けている。
※『Nile’s NILE』2021年3月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

