車体に「ハイスピード」と誇らしげに大書した列車は、ロンドンのセント・パンクラス駅を出ておよそ90分でラムズゲイトの駅に着いた。ここからバスでマーゲイトに向かう。本来なら列車でマーゲイトに直行できるのだが、現在は駅舎改修のため列車は止まらない。しかしビクトリアン・ハウスが並ぶブロードステアーズの街並みを車窓に眺めながら束の間のバス旅も悪くない。
ラムズゲイトの手前の駅、カンタベリー・ウェストで日本人の母と娘が下車した。毎年100名もの日本人留学生が学ぶケント大学があり、カズオ・イシグロも学んだという。他にカンタベリー・クライスト・チャーチ大学や世界遺産のカンタベリー大聖堂でも知られる歴史的な古都である。
風の強い朝だった。美しい砂浜が広がり古い街並みを残すマーゲイトは、ラムズゲイトやブロードステアーズとともにロンドンっ子に人気のリゾートタウンとしてにぎわっていたが、1970年代の不況が街に影を落とした。それを一変させ、街とケント州東部に再び活気を取り戻したのが、2011年にオープンした美術館「ターナー・コンテンポラリー」であった。
海を望み、古い街並みとは対照的なキューブ状のモダンな建物はデービッド・チッパーフィールドのデザインにより、名前はマーゲイトに縁の深いイギリスを代表する風景画家、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーにちなんでいる。
ロンドンのコベント・ガーデンで理髪師の子として生まれたターナーは、母親が精神疾患を持っていたこともあり十分な学校教育を受けていなかった。11歳のとき叔父の住むマーゲイトを初めて訪れ学校に通い、以後しばしばこの街を訪れた。14歳の頃、風景画家のトーマス・マートンのもとで絵画の基礎を学び、ロイヤル・アカデミー付属美術学校に入学。24歳でアカデミーの準会員、26歳で正会員になり、パトロンにも恵まれ「カレーの桟橋」などロマン主義的な代表作となる作品を残す。
1819年のイタリア旅行でその陽光に魅了され、多くのスケッチを描き、とりわけベネチアに引かれ、その後も訪問、大きな転機となる。その10年後、気難しいターナーの助手としてサポートしていた父親の他界は衝撃となった。1833年、独身のターナーは夫を亡くしたソフィア・ブースと知り合い生涯をともにした。
晩年のターナーはマーゲイトのゲストハウスやチェルシーでブース夫人と過ごしたと言われ、ゲストハウスの跡に「ターナー・コンテンポラリー」が建てられ、広い海側の窓からガラス越しにターナーが眺めた海を望むことができる。
ターナーは1851年に死去するが、手元の主な作品をすべて国家に遺贈し、これらの作品はロンドンのナショナル・ギャラリーやテート・ギャラリーに収蔵されている。
ターナー・コンテンポラリーのオープンは、この地にルネサンスとも言える変革をもたらした。350万人を超す入場者と7000万ポンド以上の経済効果を町と州にもたらしたのだ。入場は無料で、運営は個人や財団の寄付によっているにもかかわらず、である。
主要となる展示は企画展で、今年は5月3日まで「アメリカ南部の芸術と抵抗」がテーマの展示が行われているが、2019年度ターナー賞展では14万という過去最高の入場者を記録し、連動した祭典「マーゲイト・ナウ」には500人ものアーティストが参加し、音楽、ダンス、展示などなど60ものイベントが市内で繰り広げられた。
その活況の背景には、美術館のオープン以来、若い芸術家が移り住むようになり、コミュニティーが形成されていたことがある。一方、美術館とカンタベリー・クライスト・チャーチ大学との共同プロジェクトで毎年行われている「ポートフォリオ」は、地域の生徒、学生、教師、コミュニティーグループを対象にしたアートコンペティションにより、若者や子どもたちと芸術の距離を縮め、豊かな感性を育んでいる。
ビーチ沿いの遊歩道で、愛犬テスと散歩中のスティーブさんに会った。65歳でウェブデザインが仕事だという。「ロンドン生まれだが、きれいな空気を求めて35年前に引っ越してきた。遠来の訪問者にこの街本来の姿を見てもらえず残念だ。美しいマーゲイトの写真を送るよ」と言い残し、テスに引かれるように灯台の方に向かっていった。風はやまなかったが青空が少し雲間から見えた。
※『Nile’s NILE』2020年4月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

