人生のなかで、パリで暮らす予定はなかった。しかし、偶然のいたずらなのか急にパリで働くことになってしまい、言葉もできないまま東京から引っ越したのは、三一歳の時だった。
バスティーユの小さな部屋で新生活が始まる夜、大家さんから手渡されたのはパリ20区が掲載されたブックレット状の地図である。
「プレゼントよ」
東京では地図なんか必要ないから、なんなんだ、と不思議に思うばかり。しかし、ページ開いてみて、よくわかった。どうやらパリでは、6000以上にものぼる全ての通りに固有の名がついており、住所と地図さえあればどんな店にも行けるが、逆に地図がなければほとんどどこにもたどりつけないのである。
その夜から数年の間に、何度も引っ越しをした。最終的に腰を落ち着いたのは、6区のサンジェルマン地区だった。教会のあるボナパルト通りをまっすぐ進み、青いドアをあけ、螺旋階段を5階まで上がった右側が、私の部屋だ。通りに面した窓辺からは、カフェのファザードがよく見える。仕事が休みの時私は、窓際に置いた小さな机で特に発表するあてもない文章を書き綴り、疲れるとカフェに出入りする人々や石畳の上で迷子になっている観光客を眺めた。
パリの入り組んだ路地は、長い歴史の中で自然発生的に形作られた。城塞都市だった中世のパリでは、大勢が密集して暮らしており、建物は無秩序に建てられ、商店や市場は自由に軒を連ねた。人間の営みの偶然の積み重ねが、現在の蟻の巣のような路地を形成したわけだ。ちなみにパリで一番短い通りは、長さ5メートルの階段「ドゥグレ通り」だとか。
我が家から二分ほどの距離にあったのが、ヴィスコンティ通りである。幅はたった3メートル、長さは200メートルで、パッとみたところ、陽当たりが悪い地味な路地である。しかし、一歩足を踏みいれると、街の喧騒は急速に遠のき、小さなギャラリーがひっそりと佇むその風景はどこか異世界で、私は好んで散歩のルートに選んだ。
よく見るとその通りには、壁にいくつものプレートが掲げられていた。最初は素通りしていたが、ある日「ラシーヌはここで死んだ」と書かれていることを理解してからは興味が湧いた。
プレートの一つにあったのは、「『人間喜劇』を書いたバルザックの印刷所」の文字。調べてみるとバルザックは、若い頃から作家になることを夢見ていたものの、展望がまるで拓けず、一念発起して20歳以上年上の恋人に借金、ここで印刷工場を開いたとか。しかし、経営には向かず、多額の借金とともに印刷所を去った。そんな経験も糧になったのか、後に金や権力といった欲望に駆られた人間の様子を描いた名作『人間喜劇』が生まれた。
思えば私もあの頃は、別の仕事をしながら、誰にも頼まれていない原稿を書き続けていた。あのカフェの見える窓辺で――。そこで書いた原稿が後のデビュー作となり、パリを去ってから16年が経った現在もなんとか作家として仕事を続けている。
川内有緒 かわうち・ありお
ノンフィクション作家。1972年、東京都生まれ。映画監督を目指して日本大学芸術学部へ進学したものの、あっさりとその道を断念。渡米したあと、中南米のカルチャーに魅せられ、米国ジョージタウン大学大学院で中南米地域研究学修士号を取得。米国企業、日本のシンクタンク、仏のユネスコ本部などに勤務し、国際協力分野で12年間働く。2010年以降は東京を拠点に評伝、旅行記、エッセイなどの執筆を行う。『バウルを探して 地球の片隅に伝わる秘密の歌』(幻冬舎)で新田次郎文学賞、『空をゆく巨人』(集英社)で開高健ノンフィクション賞、『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(集英社インターナショナル)でYahoo!ニュース│本屋大賞 ノンフィクション本大賞を受賞。その他の著書多数。26年2月には三好大輔と共同監督を務めたドキュメンタリー映画『ロッコク・キッチン』が公開。

