とんかつ好きが昂じて、とんかつ屋を始めた。
20年以上、年間200食以上のとんかつを食べ続けている。総量にすれば優に1トンを超えるだろう。店を開いてからは、10万枚以上のとんかつを揚げてきた。
数字にすると少々大げさに聞こえるが、私にとっては日常の延長である。20代の頃、理由を考えるよりも先に、私はとんかつを食べていた。夕食の半分はとんかつだったのではないかと思う。いま思えば、ずいぶんと偏った食生活である。しかし当時の私は、それが偏りだとは少しも思っていなかった。
なぜ、そこまで惹かれるのか。その問いをきちんと考えたのは、ずっと後のことである。
私にとってとんかつは、豚肉をもっとも構造的に美味しくする料理だ。衣は熱を伝えながら内部の水分を保ち、旨みを閉じ込める。高温の油は表面を瞬時に固め、内部を蒸し上げる。赤身の締まりと、蕩ける脂の甘さ。その対比こそが、醍醐味である。「牛の脂はしつこいが、豚の脂はうまいだろ」小学生の頃、父が何気なく言った一言を覚えている。振り返れば、その言葉が私の人生を決めたのかもしれない。
前職は事業再生のコンサルタントだった。出張が多く、全国を巡った。その土地その土地で銘柄豚のとんかつを食べた。「どろぶた」「TOKYO X」「サドルバック」。気づけば、味の印象を書き留め、比較し、記録していた。美味しい、で終わらせず、なぜ美味しいのかを言葉にしようとしていた。そしてコロナ禍。夫婦ともに50歳を前に、これからの人生を考えた。夫婦でとんかつ屋を開くことを決めた。建築士である妻が店の図面を引き、私がとんかつをつくりこむ。好きなことを、徹底してやってみようと。そして、店づくりを進める中で、もう一つの気づきがあった。とんかつの向こう側に、大きな世界が広がっているという事実である。
提供したい銘柄豚の生産者に直接電話をかけ、農場を訪ねた。そこで初めて知った。品種の配合がとても大切なこと。脂の質は飼料で変わること。環境が豚の身体だけでなくメンタルの健康を左右すること。それまで私は、膨大な量のとんかつを食べてきた。しかし「美味しい」で止まっていた。その美味しさの背後に、育てる人の思想があると知った瞬間、世界が一段深くなった。
とんかつを食べることと、揚げることは、まったく別の行為である。食べる側にいる時は結果しか見えていなかった。断面の色、肉汁の滲み、衣の立ち方。皿の上に置かれた一枚は、完成形であった。しかし揚げる側に立つと、その一枚は分解する必要があった。「揚げ油は何度だったか」「衣をつけてから鍋に入れるまで何秒なじませたか」「中心温度はどこで止めるべきか」「脂身にもしっかり火入れされているか」銘柄が変われば火入れに必要な時間は大幅に変わる。同じ銘柄豚でも個体差はある。肥育日数が違えば筋繊維の締まりも違う。脂の融点が1度違うだけで、口溶けは変わる。
食べてきた1トンは、揚げるための準備だったのかもしれない。そして10万枚を揚げて、ようやく分かったことがある。とんかつは、料理であると同時に、設計でもある。温度と時間の設計。赤身と脂質の設計。偶然の産物ではない。意思の積み重ねである。もっとも、ここまで理屈を並べておきながら、最後はやはり「うまい」の一言に尽きるのだが。
ワインやコーヒーの世界では、生産者が語られる。ならば豚肉でも同じことが起きてよいのではないか。そう考え、「旅するとんかつ」という構想が生まれた。日本各地の銘柄を通して、生産者と食べ手をつなぐ場所にしようと。
とんかつは皿の上で完結しない。豚舎から厨房までが一本の線でつながっている。その線を、できるだけ太くしたいと思った。1トン以上を食べ、10万枚以上を揚げる。その両側から、とんかつを見つめてきた。この連載では、美味しさを感覚だけで終わらせない。温度、脂、時間、背景――それらを少しずつ言葉にしていきたい。
とんかつの向こう側へ。
ご一緒いただければ幸いである。
眞杉大介 ますぎ・だいすけ
学生時代から全国のとんかつを食べ歩き、事業再生コンサルタントからとんかつ職人へと転身した異色の経歴を持つとんかつマニア。2021年11月「tonkatsu.jp 表参道」をオープンし、プロデューサーを務める。全国各地の養豚家を訪ねて厳選した銘柄豚のラインアップと、その個性を引き出す職人技は高い評価を得ている。現在は食文化としてのとんかつを次世代につなぐため、精力的に活動中。
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※『Nile’s NILE』2026年4月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています

