名高達郎がアリハソッツェと呼ばれる石を持ち上げるバスク特有のスポーツに挑戦したアリナミンAのCM、また司馬遼太郎が週刊誌の連載「街道をゆく」で旅し、緒形拳がピレネー山脈のロンカル谷の村で一年間過ごした記録のTV番組「風の谷の虹の村」を覚えている人は少ないだろう。いずれも1980年代のことで、「バスク」という言葉が身近になったのはこの頃だと思われる。
バスク人とは誰か
名高達郎がアリハソッツェと呼ばれる石を持ち上げるバスク特有のスポーツに挑戦したアリナミンAのCM、また司馬遼太郎が週刊誌の連載「街道をゆく」で旅し、緒形拳がピレネー山脈のロンカル谷の村で一年間過ごした記録のTV番組「風の谷の虹の村」を覚えている人は少ないだろう。いずれも1980年代のことで、「バスク」という言葉が身近になったのはこの頃だと思われる。
バスクとは民族の呼称であると同時に固有の歴史と文化圏を示す地域の呼称である。地中海から西に向かって約430㎞、ヨーロッパ大陸とイベリア半島を隔て、スペインとフランスの国境を成すピレネー山脈がカンタブリア海に落ち込むあたりに広がる。現在ではスペインの4県とフランスの3地域を含めた約2万㎢がバスク地方と呼ばれている。芸術や美食の地として世界の耳目を集めているバスクだが、終始ミステリアスな印象がつきまとう。まず言語である。バスク語は他のどの言語とも関連性がなく、インド=ヨーロッパ語が広まる以前からあった系統不明の言語と言われ、そのバスク語を話す人々の住む地域がバスクなのだ。
言語は民族文化の核であり、それゆえスペイン内戦時のゲルニカ爆撃を始め、フランコ政権時代には激しい弾圧を受け、バスク語は禁じられた。歴史上イベリア半島にはケルト、ゲルマン、ローマ、イスラム・アラブと多くの民族が入ったにもかかわらずその影響は少なく、バスク人の起源は詳しく分かっていないという。
一緒に食べ、歌い、踊る
海の幸、山の幸をもたらす豊かな自然は、同時に厳しい生活環境でもある。そこでは牧羊や漁業などの共同作業を通じてともに食べ、歌う習慣が生まれ、結び付きの強いコミュニティー文化が育まれ、ソシエダ・ガストロノミカ(バスク語でチョコ)、いわゆる「美食クラブ」の背景となって、バスクの食文化を支えていった。
美食クラブは19世紀後半にサンセバスティアンで始まり、当初は職人たちのギルドや互助会といった性格を持っていた。牧羊や漁業が主体のバスクでは、男性は長期間家を留守にすることが多く、女性が家を守る母系社会であったことも要因とされる。そこで男たちの自己解放の場として社交クラブが次々に生まれたが、突出していたのは「食」を楽しむクラブで、自ら料理を作り、歌い、仲間の絆を深めた。一方、家庭では長い歴史の洗礼を受けながら生き抜いた家庭料理が受け継がれていた。
クラブの目的や性格は異なっていても「男だけ」と「食べる」ことは共通し、加えて「女性禁止」というルールは、謎めいたものを感じさせた。しかし、1920年代に若い世代のクラブが次々に生まれ、また社会環境の変化もあり、休日や祝祭日にゲストとして女性の出席を認めるなどクラブも変化した。現在では無条件で女性が参加でき、あるいは会員になれるクラブもあるという。
ピンチョスの誕生
褐色に乾いた高原地帯が広がるイベリア半島だが、北端のカンタブリア山脈が北の海に一気に落ち込む一帯は緑に恵まれ「緑のスペイン」とも呼ばれる。そのカンタブリア山脈が東端でピレネー山脈と交わりビスケー湾に落ち込んだところにサンセバスティアン(バスク語ではドノスティア)がある。
モンテ・イゲルドとモンテ・ウルグルという二つの岬に挟まれ、コンチャと呼ばれる美しく広い砂浜の湾に面した街サンセバスティアンは小さな漁港として始まるが、やがてカスティーヤ王国の重要な羊毛の輸出港となる。しかしスペインがフランスによる占領からの独立戦争末期の1813年8月31日、ナポレオン軍の侵攻で街は焼失。その後再建されたのが現在の旧市街で、憲法広場を中心にフェルミン・カルベトン通りや、わずかに焼失を免れたことにちなむ8月31日通りを始め、自慢のピンチョスでしのぎを削るバルがひしめきあっている。
スペイン人の暮らしに欠かせないのがバル。そこではおつまみとも言えるタパスと呼ばれる軽食を出すところが多い。そのタパスがサンセバスティアンを震源に小皿料理として進化したのがピンチョスだが、その歴史はそう古いものではなかった。もともと料理の評価が高かったバスク地方だが、1887年、摂政となったマリア・クリスティーナが、サンセバスティアンに夏の王宮を構えたことからコンチャの浜はロイヤルビーチとも呼ばれ、ヨーロッパの上流階級が集うリゾートとして有名観光地となっていった。そうした中、世界から訪れるリゾート客に向け、旧来の伝統料理依存から脱しようと、若いシェフたちが研究してレシピを共有し合ったことから、新しい料理が次々にレストランのテーブルを飾るようになった。レシピのオープン化で、サンセバスティアンのバル「ラ・ヴィーニャ」の人気メニューであるオリジナルのチーズケーキを、今では日本のスペイン料理店で食べることもできるのだ。
この動きが始まったのは1970年代のことで、中心にいたのが当時からすでにヨーロッパでは屈指と言われていたレストラン「アルサック」のオーナーシェフであるフアン・マリ・アルサックである。彼に触発されたフェラン・アドリアは、世界で最も予約が取りにくいと言われたレストラン「エル・ブジ」を率いることになる。フェランの影響は世界に広まったが、当然それはバスクの若いシェフたちの料理、そしてバルのタパスにもおよび、次々に新しい料理がバルから生まれた。
ピンチョとは「串」のことで、代表が酢漬けの唐辛子にアンチョビ、そしてオリーブの実をようじで刺したヒルダ。往年の女優でセックスシンボルとして人気を誇ったリタ・ヘイワースが演じた映画『ギルダ』(1946年公開)にちなんだもので、女性の曲線美を表していると言われ、今でも定番のピンチョスである。
バルから生まれる新しい料理
シンプルな串刺しもエビを始めさまざまな食材が加わって次第に華やかになり、加えて分子料理などフェランの影響もあってエンターテインメント性が加味され、レストランで供されるような手の込んだ小皿料理は爆発的な人気となった 。つまみの概念も越え串刺しの垣根も越えてしまったのだ 。
カウンターにズラリと並んだピンチョスは実に壮観で、客が好みで選べるようなスタイルにしたのもサンセバスティアンのバルが発祥だ 。バルに不慣れな観光客にとっても便利なシステムと言え、バルのハシゴを楽しくしている 。
そう、バルの楽しみ方の神髄はハシゴにあり、サンセバスティアンの大きな観光要素でもある 。1、2杯、1、2品で次のバルへというのが楽しみ方のコツで、混んでいる店ではピンチョス選びに時間はかけられない 。カウンターに潜り込み、店員と目が合ったら素早く飲み物を注文し、その間にピンチョスを選ぶのがポイントである 。その店の人気メニューをあらかじめチェックしておくことも大事で、まごまごしていると何も口にできないことにもなりかねない 。
今日もまた、バルのカウンターには食欲をそそる新しい料理が並んでいるに違いない 。ファン・マリ・アルサックは言う 。
「バルのピンチョスの進化が止まることはないだろう」
※『Nile’sNILE』2022年6月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

