パブロ・ピカソの怒り Homenaje a Gernika

パブロ・ピカソの名作「ゲルニカ」。この誰もが知る作品を、ピカソが描いた理由を知る人は、今どれだけいるだろうか。1937年4月26日月曜日、スペイン北部バスク地方に位置する小さな町、ゲルニカが、史上初の都市無差別爆撃という悲劇に見舞われた。ピカソの怒りはキャンバスに向かい、この作品が一気に描き上げられたのである。この「ゲルニカ」はパリ万博に出品された。

Photo Chiyoshi Sugawara Text Chiyoshi Sugawara

パブロ・ピカソの名作「ゲルニカ」。この誰もが知る作品を、ピカソが描いた理由を知る人は、今どれだけいるだろうか。1937年4月26日月曜日、スペイン北部バスク地方に位置する小さな町、ゲルニカが、史上初の都市無差別爆撃という悲劇に見舞われた。ピカソの怒りはキャンバスに向かい、この作品が一気に描き上げられたのである。この「ゲルニカ」はパリ万博に出品された。

セラミックで作られた「ゲルニカ」の複製。完成直後の作品に接した数少ない芸術家のひとりヘンリー・ムーアの作品も昔教会の公園にある。

カンタブリア海に面し、緑が豊かなことから「グリーン・スペイン」とも呼ばれるスペイン北部。オカル川の河口に位置する小さな港町ムンダカはサーフィンのスポットとしても知られているが、深い入り江のような川を10kmほどさかのぼると、人口1万7000ほどの小さな町ゲルニカがある。

バスク州ビスカヤ県に属し、郊外にはバスク州特有のワイン「チャコリ」用のぶどう畑、そして「ピミエントス・デ・ゲルニカ」という呼び名のシシトウの産地としても知られ、近くの山腹にはアルタミラと並ぶ旧石器時代の岩絵が残る「サンティマミニェの洞窟」がある。しかしこの静かな山間の町が世界に知られたのは、ピカソの名作「ゲルニカ」による。

現在マドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されているこの作品が制作されたのは、1937年夏に開催されるパリ万博のスペイン共和国政府館に展示する作品の構想を練っていたピカソに、爆撃によってゲルニカの町が壊滅したという悲報が届いたからだった。

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    樹齢300年と言われる「ゲルニカの木」。樫の古木は東屋に守られ、訪れた人たちは、その子孫となる樫の実を熱心に拾っていた。
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    爆撃の破壊から免れたゲルニカの議会堂。2005年に植え替えられた現代の「ゲルニカの木」の枝が、画面右端にわずかに見えている。
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    議会堂前のテラスから、オーディトリアム越しに川の対岸の山腹を望む。橋は真っ先に爆撃のターゲットになった。
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    小さな広場とタウンホールと向かい合う「ゲルニカ平和博物館」の壁には、日本の子どもたちによる平和へのメッセージが掲げられていた。
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1936年7月、スペイン第二共和政府に対し、フランコ将軍の指揮のもとモロッコで軍事蜂起した反乱軍によって市民戦争が勃発した。そして1937年4月26日の午後、ゲルニカでは恒例の月曜市が開かれにぎわっていた。近郊の農民たちは採れたての作物を牛車で運び、市場に並べた。と、教会の鐘が打ち鳴らされ戦闘機の襲来を告げた。午後4時40分、1機のハインケルHe111が山陰から現れて爆撃。飛び去ると次の3機がやってきた。

山間の町は空からの攻撃が難しいこともあって、ゲルニカは無防備だった。そこに反乱軍を支援するナチスのコンドル軍団の新鋭戦闘機や爆撃機が急襲したのだ。ハインケルに続き23機のユンカースJu52、「空飛ぶ鉛筆」の異名を持つドルニエDo17、メッサーシュミットBf109、いずれも最新鋭の重機銃を備えていた。さらにイタリア軍のサヴォイア・マルケッティ3機、フィアットCR32が12機も加わり、爆撃は7時過ぎまで続いた。戦闘機群は上空を旋回し、人々は町の外に逃れることもできず、町の8割が破壊された。当時の人口は7000人と言われ、そのうちバスク自治政府の調査で1654人の市民が犠牲になったと推計された。戦争による大量無差別殺戮の端緒だった。

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    バスクのワイン「チャコリ」となるオンダラビ・スリ種のぶどう畑が山腹に広がる。
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    サンティマミニェの洞窟は、保存のため内部見学できないが、3Dの映像で疑似体験ができる。
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    ゲルニカの目抜き通りは「パブロ・ピカソ通り」と命名され、そこここに樫の葉をデザインした標識がある。
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    パブロ・ピカソ通りの北正面に見えるタウンホール。左手に見えるのがフェリアル庭園。
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しかし、ギプスコア県のエイバル、ビスカヤ県のオチャンディアーノとドゥランゴなど、バスク地方への攻撃はすでに3月31日に始まっていた。古都ドゥランゴでは、その朝多くの人がミサを行っていたが、30分におよぶ空爆で258人が亡くなり、フランコ側は「コミュニストの仕業だ」と発表した。しかしゲルニカが爆撃されたとき、1人のベルギー人と4人のイギリス人ジャーナリストがこの地域にいた。ロンドンの「ザ・タイムズ」の特派員ジョージ・スティアは、「ザ・タイムズ」と「ニューヨーク・タイムズ」に第一報を送り、世界の新聞がこれに続いた。

フランコはバスク人の自作自演だと主張し、国際的な調査も阻止しようとした。悲報にピカソの怒りは頂点に達し、5月に入るとスケッチに着手。パリのアトリエで縦349×横777cmのキャンバスに向かい一気に描き上げ、6月4日にはほぼ完成させたと言われる。1939年にフランコ独裁政権が誕生。ピカソはフランコ体制が続く限り、スペインには戻らないと言った。一方、作品の評価は分かれ、万国博終了後は流浪の旅に出ることになった。

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    フランシスコ・デ・メンディエタにより1609年に描かれた「1476年に宣誓するフェルナンド2世の手に口づけするビスカヤ公の図」。
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    フエロス遵守の宣誓をするスペイン国王の絵が掲げられたゲルニカの議会堂。1826年に建てられたが爆撃による破壊を免れた。
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    ゲルニカ爆撃の慰霊碑がたつフェリアル庭園。かつてはここで月曜の市が開かれていた。
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    フェリアル庭園の一角に立つイパラギレの像も、市民のパセオ(散策)時には表情もやわらぐ。
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アメリカ芸術家会議は共和国支援のために「ゲルニカ展」を企画したが、その後、1939年の第2次世界大戦の勃発により、フランスのピカソには戻さずニューヨーク近代美術館に保管した。「ゲルニカ」がスペインへ返還されたのはフランコ没後の1981年で、プラド美術館の別館で防弾ガラスに守られて展示。1992年9月、ソフィア王妃芸術センターの開館に伴い目玉となる絵画コレクションとして移されている。以来、外部への貸し出しも一切行われていない。

外洋から護られたムンダカの小さな港。河口側の瀟洒なカフェのテラスからは波に挑むサーファーの姿が見える。

バスクの人々は「ゲルニカ」のバスクでの展示を熱望。ビルバオのグッゲンハイム美術館での展示を期待したがかなわず、原寸大セラミックタイル製の複製をゲルニカのペドロ・デ・エレハルデ通りに設置した。フェロス広場には「平和博物館」があり、ジオラマや写真、ビデオなどで爆撃の惨状を伝え、世界へ平和のメッセージを送っている。また毎年4月26日に記念行事を行い、空爆50周年の式典では広島市長も参列し挨拶を述べている。

バスクの人々がゲルニカの空爆に特別な思いを寄せるのには、もう一つの理由があった。中世以後、バスク各地では「フエロス」という自治権が認められ、地域を治める領主は樫の木の下で、「フエロス」の遵守を宣誓する習わしがあった。それはカスティーリャ王国に併合された後も続き、ビスカヤの政治の中心だったゲルニカの議会堂内には、樫の木の下で宣誓するスペイン国王フェルナンド2世の絵が掲げられている。

フェリアル庭園の一角に立つ像は即興歌人イパラギレ。1852年に歌った「ゲルニカの木」は、バスクの民族歌となった。

19世紀を通し、スペイン国内を二分したカルリスタ戦争後「フエロス」は剥奪されたが、ゲルニカの樫の木はバスク自治の象徴であり続け、聖地でもあったのだ。議会堂の庭には樹齢およそ300年の樫の幹が東屋に保存され、現在「ゲルニカの木」と呼ばれる樫の木はその子孫に当たる。

コンドル軍団の爆撃にあった市場は移転し、跡はフェリアル庭園と呼ばれる小さな公園となり、その一角にバスクの民謡「ゲルニカの木」の作者でベルチョラリ(即興歌人)のホセ・マリア・イパラギレの像が立ち、楽譜と彼のギターは議会堂に保存・展示されている。

バスクでは人々の生活に根ざした即興歌の伝統があり、パーティーやバルでは誰ともなく歌い出し、ゲルニカでも競技会や月曜市などには即興歌の催しが開かれている。

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    「ゲルニカの木」の楽譜とイパラギレのギターは、1985年に議会堂に併設して建てられステンドグラスが天井を覆うサロンに展示、公開されている。
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    ギプスコア生まれのJ・M・イパラギレは「ゲルニカの木」を作詞し、マドリードで初演したが、カルリスタ戦争後アルゼンチンに亡命した。
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真のラグジュアリーとは何か

真のラグジュアリーとは何か

ラグジュアリーの定義が、音を立てて変わりゆく時代にあっても、最高峰のプロダクトを手にし、その圧倒的な美しさに触れる高揚感が、人生を鮮やかに彩る原動力であることを、私たちは知っています。
物質的な豊かさが、依然として私たちの精神を支える強靭な基盤であることに、言を俟ちません。
真の贅沢はそこから始まります。
アルゴリズムが弾き出す「正解」を疑い、自らの審美眼と直感で未踏の価値を切り拓く。
その「知的冒険」こそが、グローバリズム崩壊後の世界に残された、最後のラグジュアリーではないかと考えます。
Nile's NILE Digitalは、物質と精神、伝統と革新、都市の快楽と野生の回復――この相反する要素を「アンビバレンス」として愉しむ、選ばれた冒険者たちのためのプラットフォーム。
混沌を優雅にサバイブするための視座と、本物の体験へのアクセス権。
ここはまさにDesigning for the Exceptionalsの砦。
知的冒険者たちが集い、次なる航路を描くための、現代の港となります。

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