カンタブリア海に面し、緑が豊かなことから「グリーン・スペイン」とも呼ばれるスペイン北部。オカル川の河口に位置する小さな港町ムンダカはサーフィンのスポットとしても知られているが、深い入り江のような川を10kmほどさかのぼると、人口1万7000ほどの小さな町ゲルニカがある。
バスク州ビスカヤ県に属し、郊外にはバスク州特有のワイン「チャコリ」用のぶどう畑、そして「ピミエントス・デ・ゲルニカ」という呼び名のシシトウの産地としても知られ、近くの山腹にはアルタミラと並ぶ旧石器時代の岩絵が残る「サンティマミニェの洞窟」がある。しかしこの静かな山間の町が世界に知られたのは、ピカソの名作「ゲルニカ」による。
現在マドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されているこの作品が制作されたのは、1937年夏に開催されるパリ万博のスペイン共和国政府館に展示する作品の構想を練っていたピカソに、爆撃によってゲルニカの町が壊滅したという悲報が届いたからだった。
1936年7月、スペイン第二共和政府に対し、フランコ将軍の指揮のもとモロッコで軍事蜂起した反乱軍によって市民戦争が勃発した。そして1937年4月26日の午後、ゲルニカでは恒例の月曜市が開かれにぎわっていた。近郊の農民たちは採れたての作物を牛車で運び、市場に並べた。と、教会の鐘が打ち鳴らされ戦闘機の襲来を告げた。午後4時40分、1機のハインケルHe111が山陰から現れて爆撃。飛び去ると次の3機がやってきた。
山間の町は空からの攻撃が難しいこともあって、ゲルニカは無防備だった。そこに反乱軍を支援するナチスのコンドル軍団の新鋭戦闘機や爆撃機が急襲したのだ。ハインケルに続き23機のユンカースJu52、「空飛ぶ鉛筆」の異名を持つドルニエDo17、メッサーシュミットBf109、いずれも最新鋭の重機銃を備えていた。さらにイタリア軍のサヴォイア・マルケッティ3機、フィアットCR32が12機も加わり、爆撃は7時過ぎまで続いた。戦闘機群は上空を旋回し、人々は町の外に逃れることもできず、町の8割が破壊された。当時の人口は7000人と言われ、そのうちバスク自治政府の調査で1654人の市民が犠牲になったと推計された。戦争による大量無差別殺戮の端緒だった。
しかし、ギプスコア県のエイバル、ビスカヤ県のオチャンディアーノとドゥランゴなど、バスク地方への攻撃はすでに3月31日に始まっていた。古都ドゥランゴでは、その朝多くの人がミサを行っていたが、30分におよぶ空爆で258人が亡くなり、フランコ側は「コミュニストの仕業だ」と発表した。しかしゲルニカが爆撃されたとき、1人のベルギー人と4人のイギリス人ジャーナリストがこの地域にいた。ロンドンの「ザ・タイムズ」の特派員ジョージ・スティアは、「ザ・タイムズ」と「ニューヨーク・タイムズ」に第一報を送り、世界の新聞がこれに続いた。
フランコはバスク人の自作自演だと主張し、国際的な調査も阻止しようとした。悲報にピカソの怒りは頂点に達し、5月に入るとスケッチに着手。パリのアトリエで縦349×横777cmのキャンバスに向かい一気に描き上げ、6月4日にはほぼ完成させたと言われる。1939年にフランコ独裁政権が誕生。ピカソはフランコ体制が続く限り、スペインには戻らないと言った。一方、作品の評価は分かれ、万国博終了後は流浪の旅に出ることになった。
アメリカ芸術家会議は共和国支援のために「ゲルニカ展」を企画したが、その後、1939年の第2次世界大戦の勃発により、フランスのピカソには戻さずニューヨーク近代美術館に保管した。「ゲルニカ」がスペインへ返還されたのはフランコ没後の1981年で、プラド美術館の別館で防弾ガラスに守られて展示。1992年9月、ソフィア王妃芸術センターの開館に伴い目玉となる絵画コレクションとして移されている。以来、外部への貸し出しも一切行われていない。
バスクの人々は「ゲルニカ」のバスクでの展示を熱望。ビルバオのグッゲンハイム美術館での展示を期待したがかなわず、原寸大セラミックタイル製の複製をゲルニカのペドロ・デ・エレハルデ通りに設置した。フェロス広場には「平和博物館」があり、ジオラマや写真、ビデオなどで爆撃の惨状を伝え、世界へ平和のメッセージを送っている。また毎年4月26日に記念行事を行い、空爆50周年の式典では広島市長も参列し挨拶を述べている。
バスクの人々がゲルニカの空爆に特別な思いを寄せるのには、もう一つの理由があった。中世以後、バスク各地では「フエロス」という自治権が認められ、地域を治める領主は樫の木の下で、「フエロス」の遵守を宣誓する習わしがあった。それはカスティーリャ王国に併合された後も続き、ビスカヤの政治の中心だったゲルニカの議会堂内には、樫の木の下で宣誓するスペイン国王フェルナンド2世の絵が掲げられている。
19世紀を通し、スペイン国内を二分したカルリスタ戦争後「フエロス」は剥奪されたが、ゲルニカの樫の木はバスク自治の象徴であり続け、聖地でもあったのだ。議会堂の庭には樹齢およそ300年の樫の幹が東屋に保存され、現在「ゲルニカの木」と呼ばれる樫の木はその子孫に当たる。
コンドル軍団の爆撃にあった市場は移転し、跡はフェリアル庭園と呼ばれる小さな公園となり、その一角にバスクの民謡「ゲルニカの木」の作者でベルチョラリ(即興歌人)のホセ・マリア・イパラギレの像が立ち、楽譜と彼のギターは議会堂に保存・展示されている。
バスクでは人々の生活に根ざした即興歌の伝統があり、パーティーやバルでは誰ともなく歌い出し、ゲルニカでも競技会や月曜市などには即興歌の催しが開かれている。

