苦難に満ちた教会建設
奇才とも天才とも言われるアントニ・ガウディがサグラダ・ファミリアの建築に関わったのは1883年、当時バルセロナに隣接していたグラシア市で別荘のカサ・ビセンス(1883年着工)を建築中の時期で、31歳という若さだった。以来43年間、サグラダ・ファミリアの建築に関わることになる。
宗教書専門店の店主だったジュゼップ・マリア・ボカベージャがサグラダ・ファミリア建設のためサン・ジョセップ協会を設立したのが1866年。初代建築家のF・ビジャールによって1882年に起工したものの、意見の食い違いからガウディに引き継がれることとなるが、信徒の寄付金頼みという建築資金に加えガウディ自身のこだわりもあり生涯で完成できたのは、前任者から引き継いだ地下聖堂や生誕のファサードなど、全体の1割にも満たなかった。
さらに第1次世界大戦(1914~18年)の勃発で資金難は深刻となり、私財を投じ、また最大の支援者で理解者でもあったエウゼビ・グエルも1918年に他界。失意のうちに聖堂建設に没頭するも、1926年に市電との接触事故で73歳の生涯を終えた。葬儀はサグラダ・ファミリアの地下聖堂で行われ、そこに眠る。
すでに完成していたベルナベの鐘塔に続き、ガウディの没後ほどなく弟子たちの手でシモンの鐘塔、タダイのユダの鐘塔、マタイの鐘塔が完成するなど生誕のファサードが姿を見せた。そこには受胎告知やイエスの誕生、そして青年期に至る聖家族の物語が刻まれている。しかしスペイン内戦(1936~39年)によってガウディが残した建築の資料や模型が破壊されてしまった。
ガウディは設計図を描かず、実験を繰り返し、模型をつくりながら設計に改良を加えていたのだ。戦後、模型の修復などを進めて工事が続けられ、2005年に生誕のファサードと地下聖堂が「アントニ・ガウディの作品群」としてユネスコの世界遺産に登録された。サグラダ・ファミリア全体が世界遺産と思われがちだが、それは正しくない。
またサグラダ・ファミリアの直下を通る高速鉄道の掘削工事の際、この聖堂が違法建築であることが判明、特例で認められるというハプニングもあったものの、2010年には身廊が完成し、教皇ベネディクト16世によってミサが執り行われバシリカとして献堂された。そして今、ガウディ没後100年となる2026年の完成を目指して工事が進められているが、ガウディは次のような言葉を残しているという。「神はお急ぎにはならない」と。
産業革命とモデルニスモ
地中海に面したスペイン北東部の街バルセロナの歴史はカルタゴのバルカ家に始まったと伝えられ、紀元前1世紀にカルタゴを破ったローマが拠点を築きバルキノと呼んだとされる。路地が迷路のように入り組むゴシック地区という旧市街には今も古代ローマの遺構が残るが、ローマ時代の市壁は14世紀半ばに拡張され、現在の旧市街の原型となる。
そして19世紀の産業革命はバルセロナにも及んでその経済力を高め、市街は拡張される中で、中央集権化を強める中央政府に対し、カタルーニャ地方の文化・言語を復興しようという「レナシェンサ(ルネッサンス)」運動が起こり、建築や美術の分野で「モデルニスモ(モダニズム)」という様式が生まれた。市壁が取り壊され、拡張されて「アイシャンププレ」と呼ばれる新市街は若いモデルニスモの建築家たちにとって活躍の場となるなど、ガウディ登場の舞台が整っていた。
グエルを魅了した非凡な才能
ガウディにとって最高のパトロンとなったグエルは、父、義父(妻イサベルの父、イスパノ・コロニアル銀行を創設)ともにキューバで財を成した実業家で、母の兄が営む織物工場の経営にも関わっていた。グエルが建築学校を卒業したばかりのガウディの才能を認めたのは、1878年のパリ万博に展示された手袋商のショーケースのデザインであったことは広く知られているが、実際に建築を依頼したのは1884年に着工したフィンカ・グエル(グエル別邸)だった。広大な敷地の中に造られたわずかな構造物だったが、ドラゴンの門扉は広く賞賛された。
フィンカ・グエルの工事と重複するように、1886年に始まったのがパラウ・グエル(グエル邸)で、バルセロナの目抜き通りラス・ランブラスを入った道に面し、質素なグエル別邸とは対照的に大胆で革新的な構造や空間を持ち、豪華な内装が施された。とりわけ2階のホールにはパイプオルガンが設置され、吹き抜けのドームの天井は星のような小さな採光窓がちりばめられ、富豪グエル家の住居、そして社交の場としてふさわしく、その財力をも見せている。一方外観は簡素で、入り口の二つのパラボラアーチの間にはガウディが好んで用いる鉄細工のタカとカタルーニャの紋章が飾られた。
実業家グエルの見果てぬ夢
グエルは手狭になった綿工場をバルセロナ郊外のサンタ・コロマ・デ・セルベジョに移転するが、彼の構想は労働者の住居や学校、教会などを含むコロニーであり、グエルの理想郷の建設であった。移転から7年後の1898年、ガウディに教会の建設を依頼するが、設計に時間がかかり、起工したのは10年後の1908年。さらに工事も遅々として進まなかった。しかしその間にもカサ・カルベ、ベジェスグアルド邸、カサ・バトリョ、カサ・ミラ、グエル公園などの建築に関わり、1900年に、カサ・カルベはバルセロナ市の第1回年間建築賞を受賞するなど、内外で評価が高まっていた。
その一方で、サグラダ・ファミリアは建設中断の危機を迎え、コロニア・グエルの教会建設も現場は人手が足りず、ガウディの手作業状態だった。さらに悪いことにマルタ熱に侵されたガウディはピレネー山麓の村で療養を強いられてしまう。
グエルの夢は続き、当時のグラシア市郊外のペラダ山の南面にイギリス風の田園都市を構想し、ガウディに依頼。1900年に工事は始まり、道路や遊歩道、市場のための列柱の広場、60区画の分譲地ができたものの、当時のバルセロナの中心から遠すぎたせいもあってか分譲されたのは2軒分だけだった。
ガウディは弟子のベレンゲールによって建てられたモデル住宅を買い取り、老父を呼び寄せ、サグラダ・ファミリアに住み込むまでの一時期住んだ。現在この家はガウディのベッドや使っていた日用品の数々、ガウディのデザインによる家具などが展示された「ガウディ記念館」として公開されている。グエルもまたその一画に住み、1918年に72年の生涯を終えた。その後、グエルの遺族はバルセロナ市に土地を売却。グエル公園には多くの人が訪れ、広く知られるようになった。
ガウディを支えたすご腕の協働者
グエル公園に住んでいた頃、ガウディは身寄りを全て亡くした。そんな彼を支え、身の回りを世話したのが彫刻家で型枠職人でもあったリョレンス・マタマラだった。設計図を描かず模型をつくり、それをスケールアップしていたガウディの模型を担当したのが4歳年下のマタマラで、サグラダ・ファミリアの生誕のファサードの彫刻にも尽力した。
グエル公園では、波打つような広場のベンチや正面階段のドラゴンの噴水、エントランス両側の管理事務所や守衛の建物の屋根などを彩るモザイクに圧倒されるが、これを担ったのはまだ27歳のJ・M・ジュジョールであった。カサ・バトリョのファサードの作業には細かい指示を出していたガウディも、ジュジョールの色彩感覚を信頼し任せていたという。ジュジョールが「ガウディの助手ですか?」と尋ねられた時、そばにいたガウディが「いえ、弟です」と答えたというエピソードが残る。ガウディから多くを学び、後に建築学校で教えるなど、モデルニスモを代表する建築家となっている。
他にも弟子と言われる人たちに、ガウディを継いで、サグラダ・ファミリアの生誕のファサードの中央に「生命の木」を完成させたD・スグラーニェスや、レンガ構造に優れた才能を発揮したJ・ルビオらがいる。
コロニア・グエルの教会建設は地下聖堂のみの完成で止まってしまう。着工までに10年を要したことは前述の通りだが、実はこの時期にガウディは「立体静力学」と呼ぶ懸垂模型を使った実験を重ねていた。地下聖堂には4本の玄武岩の柱が中央に向け斜めに立ち、レンガによるカタルーニャ・ヴォールトと呼ばれるアーチの天井を支えるという特異な空間を見せる。そして実験結果はサグラダ・ファミリアにも反映された。1914年、F・ベレンゲールが亡くなった時、ガウディは「右腕を失った」と嘆いたと言われる。ガウディより14歳も若いが頼れる工事担当者の死だった。優れた才能の下に優れた才能が引き寄せられた。助手、弟子と呼ばれる人たちも、ガウディ作品にとって欠かせない協働者たちだったのだ。
エコ建築家ガウディ
グエル公園やカサ・バトリョなどに見られるセラミックを細かく砕いてモザイクをつくる手法は「トレンカディス」と呼ばれ、耐久性もあり細かくすることで複雑に変化する面にも対応でき、ガウディは好んで用いている。そして、ジュジョールが割れた自宅の皿をグエル公園のベンチに使い、ガウディ自身もまた、取り壊される家があると聞くと、訪ねて廃棄される陶器を入手し、陶器工場が廃棄する不良品を買い取るなど、リサイクルを徹底していた。また新築の設計の依頼を受けたカサ・バトリョも、既存の建物の躯体がしっかりしていることから、改装を提案。にもかかわらず、見事なガウディ・ワールドに仕上げている。
そして1900年代も終わろうという時、考古学者マヌエル・メダルデが衝撃的な発見をする。コロニア・グエルの地下聖堂に五つのトンネルを見つけたばかりか、そこにはガウディ自身が使っていた作業台や道具類、6000枚近い職人たちの手間賃や建築資材の請求書類などがあったのだ。サグラダ・ファミリアの資料も大量に見つかった。メダルデはこれらの資料の分析を進めるうち、ガウディは建築資材の梱包材まで利用していたことを見いだしている。
ガウディが自然や環境を重視した建築家であることは周知の事実だが、在バルセロナの建築家でガウディ研究家の丹下敏明氏は次のように指摘している。ベジェスグアルド邸の建築に際しては、その土地から産した石を使い、周囲の環境にマッチするよう配慮したデザインになっていて、建材費などのコストを徹底的に削減し、人件費に充てている、と。
ともすればその奇異、特異な造形の建築作品に目を奪われがちになってしまうし、フォトジェニックであることは誰もが認める事実だろう。だが、いわばバブルのような景気に沸いていたカタルーニャで、ガウディはすでにエコロジカルな建築を実践していたと言えるのではないか。メダルデによる研究・分析が広く公開されれば、ガウディはすでに21世紀を見据えた建築家だったという新たな評価がなされるかもしれず、ガウディの建築哲学には、現代の環境問題に対しても多くの示唆が含まれているように思える。
※『Nile’sNILE』2022年2月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

