国立美術館のガウディ展
今、バルセロナでは大規模なガウディ展が開かれている。3月初めの終了後はパリのオルセー美術館に巡回し、7月17日まで開催される予定だ。アントニ・ガウディの回顧展はこれまで多く開かれたように思われているが、生誕100年を記念して1956年にバルセロナでスタート、次いで1957年にMoMA(ニューヨーク近代美術館)で開催、その後各国を巡回したのが最初で、それ以降本格的な回顧展は行われていない。
今回の展覧会は主催者がカタルーニャ国立美術館、つまり地元のパブリックのミュージアムが会場なので、現在のように観光客だけがガウディへ関心を寄せるのではなく、地元の人々のガウディに対する興味が高まってくれれば、この展覧会の意味は大きい。スペイン国内外の誰もが知っているガウディ、サグラダ・ファミリアの名前だが、地元では観光資源としてのレッテルを貼られてしまったためだろうか、意外とガウディには冷淡である。
これにはさまざまな原因があるだろうが、伝記作家たちがこぞって、ガウディはキリスト教の敬虔な信者であった、カタルーニャの独立主義者であったという刻印を押していること、研究者もこれをスタートポイントにしているからかもしれない 。また日本ではサグラダ・ファミリア建設に没頭して生涯を終えたということだけが異常に繰り返されている。
今回の回顧展では、こうした固定観念にとらわれたガウディではない姿が、そこここに見ることができる。
写真嫌いだったガウディ
生涯、ガウディは偶発的に撮られてしまったものを含めても顔や姿が写っている写真はせいぜい30〜40枚というところだろうか。スタジオでポートレートとして撮られたものともなると、3枚、最近一部の研究者からガウディの顔だと発表されたものを含めたとしても4枚しかない。
最初にガウディの顔が記録されたのは卒業と同時に撮られたもので、当時のポートレート作家として有名なパブロ・アウドウアルド(1856〜1918年)が撮影。地方出身で、しかも富裕な家系の出身でもなく、職人の家に生まれたガウディは、講義をさぼりアルバイトに明け暮れながら苦学を続けた。そして建築家のタイトルを得ると自分の事務所を開設し、その住所で名刺を作り、事務所には作業用のデスクを特注で作らせた。もっともこの事務所はとてもクライアントを呼べるような場所ではなく、市役所の近くにあるとはいえエレベーターもなく、狭い階段を上ってたどり着く最上階にあった。
それでもポートレートは当時の一流カメラマンに撮らせた。この写真は卒業年の1878年だとする説と、さらに数年後だとする説があるが、いずれにしろ卒業した頃のガウディの意気揚々とクライアントを見つけ、仕事を取ってやろうという気構えが見て取れる。手入れされた見事な髭を蓄え、髪は七三分けに撫で付け、ツイードのコートのような厚手の生地の上着を着込んでいる。
この頃のガウディは卒業する前から進めていたバルセロナ近郊のマタロで、急進的な理想のもとにスタートした労働者組合が運営する工場施設計画(マタロの労働組合計画、1878年3月20日のサイン)、若干怪しげなタイルのブローカーだったビセンスのための小さな家(ビセンス邸、1878年〜80年)、市役所からは街灯計画(レイアル広場の街灯、1878年)の依頼、事務所のすぐ横にあった手袋商コメージャがパリ万博に出展するためのショーケース(1878年)のデザイン、市内にある薬局の内装(ジベルトの薬局、1879年)、教授の一人、ジョアン・トーラスが設計した教会の内装(サン・アンドレス・デ・パロマール教会、1879年)など、細かな仕事を学生時代のアルバイト先の事務所で協働を続けながら自分でも多数のプロジェクトをこなしていた。
こうするなか「カタルーニャ主義科学遊覧協会」という文化団体に入会している。これはカタルーニャの建築や遺跡などを会員とともに見歩き、文化遺産を検証しようというものだ。ガウディは後に委員にも任命されている(1880年12月11日)。ガウディが団体に属したのはまれで、あくまでこれはソーシャル・ネット・ワーキングでクライアントに巡り合おうという、建築業界出でもなければ、有産階級の子息でもないガウディの狙いであったに違いない。この勢いが最初のポートレートに読み取れる。
2枚目のポートレート
次に知られているのが、1888年バルセロナ万博の入場パスに使用されたもの。これはカルネに顔写真とサインが入れられ、一般入場者ではなく展示者用という証し。ここでは髪が剃り落とされ、坊主頭となっている。髪はそのままで、頭の方は後頭部に髪を残しているので、額から禿げ上がったように見える。1878年の写真は襟元が暗くて確認できないが、こちらはネクタイをして薄手のジャケットをまとっている。最初の写真との違いは姿勢にも見られ、胸は張っておらず、どちらかと言えば前かがみ。そのせいで上着の鎖骨部分はジャケットに皺が寄っている。上着の色も若干明るい色で、全体にはラフな格好に見える。
この万博のパビリオンはキューバで奴隷商人として巨万の富を築き、帰国後はバルセロナに本拠地を移したアントニオ・ロペス(1817〜83年)が起業した船会社トラスアトランティカ社のためのものだった。実際にはロペスは1883年に他界していたので、事業を継いだ次男、クラウディオ・ロペス(1853〜1925年)がガウディに設計を依頼した。ガウディとアントニオ・ロペスとの直接の関係はないが、ロペスの長女、イサベル(1848〜1924年)は、ガウディの生涯のパトロンとなったエウゼビ・グエル(1846〜1918年)と1878年に結婚していた。このあたりからガウディにと口添えがあったのは想像できる。
1878年にグエル伯爵はパリの万博で偶然ガウディのデザインしたショーケースを見て才能を見いだしたとされる。その4年後の1882年に近郊のガラーフに狩猟小屋の設計を依頼。しかしこの計画をグエルは気に入らなかったのか、没になっている。さらに2年後グエルは郊外の広大な敷地に家を計画するが、その時は母屋ではなく三つの門と馬小屋のみであった。そして1886年6月30日、やっとのことグエルの居館パラウ・グエルのプロジェクトに両者はサインしている。ガウディの才能を認める人はグエル以外にもおり、1883年末には当時働いていたマルトレイの口添えで建設中のサグラダ・ファミリア教会の後任建築家として任命された。
2枚目のポートレートは、建築家の地位を確立しつつありながらも、頭を剃って目立たなければならない、独立した建築家として仕事を得なければならないというガウディだった。
個展のためのポートレート
最後の写真として知られるポートレートは1910年、パリで開かれたガウディの個展のために撮影されたものだ。展覧会の諸経費は、ポートレートの撮影費用も含め全てパトロンであるグエルが支払ったと言われている。髪や髭がすっかり白くなった58歳の姿だ。スリーピースの黒い上着に白いシャツを着て正装しているが、髪の毛は最初のポートレートのように櫛が入っておらず、帽子を被っていた痕がはっきり見える。すでに大建築家として大きな仕事も実現し、社会的に高く評価されていたのだが、髪や髭の手入れはポートレートを撮るというのにこのざまだ。
これらの3枚の写真のポーズを見ても面白い。最初の1枚は正面を見ているが、2枚目は斜めに構えている。そして3枚目は外を向き、世の中を横目で見て独自の世界を築き上げるのだというようにも取れる。
このガウディの身なりも顧みない日常のエピソードのなかには、1899年に女王イサベルがサグラダ・ファミリアを公式訪問した時、案内役になっていたガウディは現場帰りそのままの姿で現れたため、警備のSPはその汚らしい身なりを見て、とても教会建設の建築家本人とは判断できずひと悶着起こしている。カサ・カルベ(1898〜1900年)の現場から駆けつけたのだが、当時のガウディは現場でのメモをシャツの袖に書くなど、まさに職人の子に戻っており、オペラへ通い、葉巻を咥え、美酒美食を嗜んだ、最初に写真を撮った頃の姿はない。現在でもこのガウディがちらりと見られるのはベジェスグアルド(1900〜10年)のメインフロアへ上る階段の建具で、そこにはガウディの手による計算のメモが鉛筆で残されている。
イサベル訪問時の写真は残されていないが、1911年11月イサベルの次女が公式訪問をした時の写真にガウディの姿が写っている。それよりももっとよく知られているエピソードは、1926年6月7日市電に轢かれた時、あまりに粗末な服装だったので慈善病院へ担ぎ込まれたということだろうか。
丹下敏明 たんげ・としあき
1948年、愛知県生まれ。磯崎新アトリエ・スペイン代表。71年、名城大学理工学部建築学科を卒業後、ガウディに引かれてスペイン・バルセロナに渡る。以降、同地にてモデルニスモ建築を中心に研究を続け、世界的なガウディ建築研究者として名前を知られる。主な著書に『バルセロナのガウディ建築案内』(コロナ・ブックス)、『スペイン建築史』(相模書房)など。スペイン建築文化の日本への紹介および、日西文化交流への多大な貢献が評価されている。
※『Nile’sNILE』2022年2月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

