とんかつの調理は、10数リットルの油の中の世界がすべてといっても過言ではない。
熱せられた油の中で、衣に含まれる水分がジュワッと音を立てて蒸発し、その過程で油が衣の内部へと入り込む。その熱が卵や打ち粉を介して豚肉に伝わり、ゆっくりと火が入っていく。時間にして数分から、長くても20分。黄金色の衣に包まれたとんかつが出来上がる。
一見すれば、たったそれだけのこと。極めてシンプルな調理である。しかし、この「シンプルさ」の中にこそ、精密な設計が求められる。
そもそも「火入れ」とは、何かを媒介として熱を伝える行為である。焼く場合はフライパンや鉄板、ローストであればオーブンで熱した空気を通して素材の温度を上げていく。とんかつの場合は、高温の油を介して熱を伝える。
一般にはとんかつは「揚げ物」と分類されるが、豚肉の視点に立つと、その本質はむしろ「蒸し」に近い。衣に包まれた内部では水分が保たれ、穏やかに温度が上昇していくからである。焼くという行為は、加熱の立ち上がりが速く、表面温度が一気に上昇する。その結果、内部との温度差が大きくなり、狙った温度に精密に止めることは難しい。一方で揚げるという行為は、十分な油量を確保した環境であれば温度変動が小さく、比較的安定した条件で火入れを進めることができる。さらには二度揚げという手法を採ることで、より精密な火入れも可能となる。最初は低温の油でじっくり火を入れ、そのあと高温の油で衣をカラッとさせる。加熱の勾配を緩やかに保ちながら、衣の食感と内部のジューシーさを両立させるための設計である。
ここで重要になるのが、肉の内部で起きている変化である。豚のロースを例に取る。肉の中心部まで火が入ったと判断できる温度を仮にα℃とする。この温度から4℃〜5℃上昇すると、細胞内の水分が細胞壁から外へ流出する「分水」が起こる。これを超えると肉はパサつき、さらに進めば硬化し、どれほど良い素材であってもその魅力は大きく損なわれる。したがって重要なのは、中心温度を(α+3)℃ないし(α+4)℃の範囲に、いかに再現性高く収めることができるかということになる。
そして、ここでも衣の存在が大きな役割を果たすのである。衣に包まれていることで、加熱後も内部に水分が保持され、余熱による「蒸らし」が可能になる。この余熱こそ、衣の為せる業であって、単なる休ませではなく、火入れの最終工程とも言える重要なプロセスである。「蒸らし」こそ、とんかつを揚げることの肝と言っても過言ではないほどである。
適切に火入れされたとんかつはどうなるのか。前歯で噛んだ瞬間にすっと繊維がほどけ、閉じ込められていた肉汁がじわりと滲み出る。脂身は舌の上で軽やかに蕩け、赤身はしっとりと柔らかい。噛みしめるほどに旨みが広がっていく。その状態こそが、豚肉を最も美味しく調理できた時のひとつの到達点である。
とんかつとカツレツ、つまりコートレットは同じ調理法なのではないかと思われる向きもあろうと思う。しかしながらカツレツは、フライパンに薄く油を引いて火入れをする、揚げ焼き、いわゆるシャローフライである。一方で大量の油で調理するとんかつはディープフライであり、その熱の伝わり方も、火入れの自由度も大きく異なる。似ているようでいて、その本質は別の料理である。
日本には古くから天ぷらという揚げ物文化が存在してきた。大量の油を使うことが浸透していた背景がある。料理は「温度×時間」である。十分な油量があることで、調理中の温度のブレは小さくなり、火入れの再現性も高まる。とんかつという料理は、こうした文化的蓄積と技術の延長線上に成立しているのである。
美味しい豚肉を、パン粉という衣に包み、大量のラードで揚げる。とんかつは、日本だからこそ生まれ、磨かれてきた料理である。そして、その本質はまだ十分に言語化されているとは言い難い。本連載は一旦ここで区切りとなるが、火入れという技術、そしてその先にある“美味しさの構造”については、まだ掘り下げるべき論点が多く残されている。再び筆を取る機会があれば、この続きとして、より具体的にその設計を解き明かしていきたい。
眞杉大介 ますぎ・だいすけ
学生時代から全国のとんかつを食べ歩き、事業再生コンサルタントからとんかつ職人へと転身した異色の経歴を持つとんかつマニア。2021年11月「tonkatsu.jp 表参道」をオープンし、プロデューサーを務める。全国各地の養豚家を訪ねて厳選した銘柄豚のラインアップと、その個性を引き出す職人技は高い評価を得ている。現在は食文化としてのとんかつを次世代につなぐため、精力的に活動中。

