大阪商人の才覚
金融の町、北浜・中之島を語る上で、淀屋常安という人物に触れずばなるまい。戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した豪商である。
秀吉が天下を取った当時、大阪の町は建設ラッシュ。一旗揚げようと、全国から材木商や土木業者が押し寄せた。常安はその一人。伏見城建設で頭角を現し、続いて淀川の堤防工事で名を上げた彼は、時勢を読んで行動すること、俊にして敏。徳川本陣を無料で造り、さらに戦場で回収した武具の販売により巨万の富を得た。
それもすごいが、ここからが常安の真骨頂。大阪夏の陣で焼け野原と化した町で、「自費で淀川の中州を埋め立てる」ことを画策。誰も見向きもしなかったこの地を物流の拠点にした。そうして誕生した巨大な造成地こそ、現在の中之島である。
果たして各藩はここに競って蔵屋敷を建て、出荷する米を一時保管するようになる。当然、米の取引所が設置され、常安は大量の米の売買を差配。加えて米価の安定をはかるために、米の先物取引という新しい仕組みを導入した。世界初の先物取引だ。「これぞ大阪商人の才覚」と感じ入る。
常安の名の残る「淀屋橋」から土佐堀川沿いを北浜方面に歩くと、右手に大阪取引所が見えてくる。「先物取引の流れをくんで」と言うべきか、ここは1878(明治11)年、五代友厚らが尽力して発足させた大阪株式取引所を前身とする。株式会社がまだ少ない時代にあって、先進的な試みだった。現在の取引所ビルは下層階に旧大阪証券取引所の外観を残しつつ、2004年に建て替えられたもの。正面入り口に五代の銅像と「大阪証券取引所発祥の地」と刻印された石碑が立つ。
「東の渋沢、西の五代」と称されるように、東で日本経済に大きな貢献をしたのが渋沢栄一なら、西で大阪地域の経済発展に大きな足跡を残したのが五代友厚。大阪取引所の存在感がやや薄くなった現在、この銅像は「大阪経済復権」の旗印的役割を任じているようにも思える。
「住友村」に見る金融の血脈
また常安の“地盤”を引き継ぐように、この地で大阪経済の担い手になったのは住友家だ。17世紀の寛永年間(1624〜1644)、京都に書物と薬の店を開いた住友政友を祖とする住友家は、2代の友以の時に大阪に進出した。友以は南蛮吹きという粗銅から銀を分離する製錬技術を開発した蘇我理右衛門(屋号・泉屋)の長男。住友家に婿入りし、銅精錬・銅貿易を家業とする泉屋住友家の基礎を築いた人物だ。
後に糸、反物、砂糖、薬種などを扱う貿易商になり、さらに分家が両替商を開業。「大阪に比肩するものなし」と言われるほどに繁盛したという。さらに3代友信、4代友芳の時代には、銅山経営に成功。財閥としての大躍進が始まった。
そういった歴史を象徴するのが、通称「住友村」。北浜4丁目、今橋4丁目辺りの、住友グループ系のビルが立ち並ぶ地域だ。その総本山とも言えるのが住友ビルディング(三井住友銀行大阪本店)である。夜間のライトアップに映し出されるその姿、土佐堀川の川面にたゆたうその輝きは、「大阪の金融の血脈」を現代に誇るよう。「住友、ここにあり」の存在感を示している。
富が紡いだ文化
実業家はなぜ富を蓄えるのか。もちろん自社の事業を発展・拡大させることを通じて社会に貢献することが一番の目的だろう。しかしもう一つ、文化事業・社会事業の発展に資する活動を行うという大切な役割がある。巷間「日本人の富豪には欠けている視点」ともささやかれるが、中之島・北浜にはそれを体現する富豪たちがいた。
その一人が住友家15代の友純である。彼は1897(明治30)年に欧米諸国を旅し、富豪たちが惜しげもなく私財を投じて奉仕活動に取り組んでいる姿を目の当たりにした。そこで大変な感銘を受けたことが、大阪府立中之島図書館建設への決断につながった。単に資金をポンと出しただけではない。図書館そのものを建設し、5万円の基金を寄付することを申し出た。そうしてまだ図書館のなかった中之島に突如、ドームの先端まで20m余りもある「ネオバロックの館」を出現させたのである。
「難波津のまなかに植ゑし智慧の木は五十年を経て大樹となりぬ」—当館ゆかりの歌人・川田順が創立50周年を寿いで詠んだ歌の碑が、友純の精神を今に伝えている
もう一人、出色の人物がいる。両替商の家に生まれた岩本栄之助だ。1906(明治39)年に家督を継いで、株式仲買人となった彼は、翌年、株式市場が大暴落した時、全財産を投じて市場を買い支えて北浜の仲買人らを救った。一方で、大阪株式取引所で働く少年たちのために塾をつくるなど、教育にも注力した。
その後、1909(明治42)年には、財界主催の渡米実業団に参加。渋沢栄一らとともにアメリカを視察した。そして友純同様、富豪たちが公共事業に私財を投じていることに感銘し、先に他界した父の遺産もろとも大阪市に100万円を寄付。それが市立中央公会堂の建設につながった。
残念ながら岩本は、第一次世界大戦の異常景気で“逆張り”をして大損失を被り命を絶った。公会堂の完成を待たずに、39歳でこの世を去ったのである。まさに「生き馬の目を抜く」金融界にあって、岩本は義侠の相場師であり、株で得た利益を公共のために生かすことを本分とする慈善活動家でもあった。彼の夢を結実させた公会堂は、今も市民の文化・芸術の活動拠点として、生き生きと命を燃やしている。
「モダン」とは「時代の先端」を意味する。金融界を舞台に活躍した富豪たちは、実業ならびに投資を通して得た巨万の富で今日的メセナを遂行し、都市計画の一つとして“未来”をつくった。モダンな考え方の市民の力で、である。
受け継がれる170年の出汁
上等な酒と鯨のさえずり®、たこ甘露煮。この三つが、おでん屋(大阪でいうところの関東煮屋「かんとだきや」)「たこ梅」の名物だ。
1844年、初代の岡田梅次郎が創業してから、道頓堀で最も長い174年の歴史を持つ老舗。開高健や池波正太郎らが通い、その作品にも描いた当時そのままの、昭和が漂う木造瓦葺きの店内に、太平洋戦争もリーマンショックも乗り越え、脈々と受け継がれてきた味がある。
さえずり®とはヒゲクジラの舌のことで、鰹出汁にこのさえずり®を入れ、独自の仕込みで作った出汁が「たこ梅」の味だ。関東煮に鯨の舌を入れたのは梅次郎のアイデアで、客が口の中で鯨の舌を噛む音が「小鳥のさえずりのようだ」と名づけたという。前日の出汁に新しい出汁を足し、食材の旨みを含んで日々引き継がれてきた秘伝の出汁だ。
おでんとの違いについて「たこ梅」本店の店長、和田訓行氏は言う。
「おでんは、沸騰させずに温めますよね。それに、何を食べてもおでんの味になる。うちの関東煮は、ある程度味が入ると、それ以上味がいかないように食材がコーティングされるので、沸騰させています。じゃがいもならじゃがいも、大根なら大根の、食材そのものの味がするのが関東煮。浅く炊くということではなく、こんにゃくなら5日、さえずりなら1週間仕込んで、しっかり味をしみこませています」
「かんとだき」という名の由来は、中国・広東省の人がごった煮を食べているものを見て、アレンジしたからだという説もある。広東省の「カントンだき」を、大阪風に縮めて「かんとだき」。諸説あるが、単純に関東のおでんを大阪に持ってきたわけではないので、ちくわぶやはんぺんはない。
たこ甘露煮は、真蛸を伝統の出汁で炊いた、店に来た客が必ず食べるという定番。江戸時代、いい酒を上々燗に燗をつけて出す店のことを「上燗屋」といい、梅次郎が上燗屋として店を始めたことから以来、酒にもこだわっている。西宮の宮水と兵庫県産の山田錦から醸された純米酒を、ハンドメイドの錫のタンポで湯煎し、じっくりと燗をつけていく。錫の持つイオンでまろやかさを増した酒が、関東煮のやさしい味わいにぴたりと合う。
鯨のさえずり®は今は900円だが、30〜40年前の一時期は1本1500円の超高級品だった。普通のサラリーマンには手の出せない値段だったからこそ、「たこ梅で食べられるようになれば一人前や」というステータスになったという。今は店長の和田氏の采配で、若い世代も積極的に招き入れ、卵や大根など安くて旨い種から味わってもらう。スタイルは変わっても、決して変えないのは店の味だ。
「親が子を連れ、子が成長してその子を連れてと、3世代、4世代で来ていただいているお客様が多いのがたこ梅です。15年ぶりに来たお客様にも『そう、この味や』と言ってもらえれば勝ち。そこは、受け継いでいかなあかんな、と思うてます」
● たこ梅本店
大阪市中央区道頓堀1-1-8
TEL 06-6211-6201
道頓堀の心意気、ここにあり
御堂筋と道頓堀の交差点に立つ、ミナミのシンボルといえる老舗が「はり重」だ。来年は創業100年を迎える。1948(昭和23)年に新世界から移転して建てた風格ある建物に、すき焼き・しゃぶしゃぶを出す日本料理店と洋食レストラン「はり重グリル」、カレーショップ、そして精肉店「はり重」を構えている。
中核となるのは、この地に来る以前から営んでいた精肉店。今も、肉は代表取締役社長である藤本稔氏自らが、その子息とともに仕入れている。
「はり重に行けば最高の肉が食べられる」といわれて、100年。その信頼の根源にあるのは、産地やランクではなく、はり重独自の肉の目利きである。
「私も先代と一緒に日々仕入れをする中で覚えたのです。脂のノリ、サシの具合、骨付き、大きさなど、いろいろあるのですが、40年もやっているともう、ぱっと見れば第一印象でわかります。それから、うちでは黒毛和牛のメスしか入れません。メスは柔らかくて、甘いんです」
牛はいいものを一頭買いし、適した部位を各店で分ける。とりわけ、肉の旨みそのもので勝負しているのが、すき焼きだ。
「関西では、家庭ですき焼きというと砂糖を結構入れるので、肉の味がわからなくなってしまう。はり重では肉が一番だから、関西やけど、割り下を使います。割り下は肉の味を殺さない、昔からの味。はり重いうたら、この味やと思ってくださっているお客様は多いと思います」
かつて、道頓堀は多くの芝居小屋や劇場が存在する文化的なハブだった。その道頓堀で観劇を楽しんだ、芝居好きの食道楽が集った店が「はり重」だ。旦那衆やその奥方、花街の芸妓や歌舞伎俳優、芸能人に政治家。さまざまな人が訪れる店は、時代の文化そのものだった。
初代の藤本喜蔵には息子がなく、現在の稔社長は親戚筋から養子に入って代を継いだ人物だが、その文化的な造詣の深さは「はり重」にふさわしい。若い頃にローザンヌのホテル学校を出て、ヨーロッパのホテルを転々としながら各地で芝居や音楽を楽しみ、30歳の時に帰国して「はり重」に。料理の経験もあったが、先代のはからいで厨房には入らず、肉の目利きだけを身につけた。
自分の代になってからは、はり重の食文化を伝えるとともに、「はり重寄席」と名づけた落語会を開くなど、道頓堀の文化的発信地としても貢献している。
「一流の噺家さんたちが、落語のためといって快く来てくださるんです。外国の方が増えて、変わってしまった今のミナミには来たくない、という人たちにも、またミナミに来るきっかけができたと喜んでもらっています。道頓堀のためになるなら、こんなにうれしいことはないですね」
次の代を継ぐ息子も、父親の影響を受けて大の歌舞伎、文楽好き。時代が変わっても、「はり重」には、昔ながらの道頓堀らしさが残っている。もちろん、食欲をそそる、極上のすき焼きの香りとともに。
●はり重 道頓堀本店
大阪市中央区道頓堀1-9-17
TEL 06-6211-7777
※『Nile’s NILE』2018年12月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

